有森裕子氏講演会「夢はかなう ~あきらめない心をもって~」

雑記

宮城大学で開催された有森裕子さんの講演会を聴講。
日時 2021年10月31日 13:30~15:00
会場 宮城大学大和キャンパス講堂

有森さんは言わずと知れたオリンピックマラソンのメダリストである。1992年バルセロナが銀、1996年アトランタが銅。4年に1度しか開催されない夢の舞台は出場するのも至難の業、そこでメダルを取れる人というのは「生まれ持った恵まれた才能」はあって当然、子供の頃から全国レベルで活躍するようなエリートなんだろうと思っていたが、彼女は真逆に近い人でハンディや逆境の中で「何とかして、ホント、どうにかして何とかしてやる」という不屈の精神で乗り越えてきた努力の人だった。

全国レベルで活躍した人しか許されない高校陸上部の入部に際し、門前払いで監督とまともな話すら出来ない中、監督の行く先々に1か月間「現れ」続けて交渉を獲得、根負けさせて入部に漕ぎ着けた。

リクルート入社においては全国レベルで実績を残した人しか採用されない前例に対し、正に「熱意のみ」で小出監督のハートを掴んだ。
地面を蹴る力が分散し不利な身体的なハンディO脚についても根気強い努力で骨格改善させる様は、大横綱「千代の富士」が肩の脱臼癖を筋肉の鎧をまとう事で克服した話を思い出させた。

タイトルの「夢はかなう ~あきらめない心をもって~」は、逆境にあっても気持ちを強く持ち、自分を信じ、諦めず、継続して取り組むことで「実際にメダルを手にした事実」からあぶり出された心のメッセージだった。

講演の途中から涙が込み上げてきた。周囲にも目を拭う人が何人も見られた。
こんな素晴らしい講演会は初めてだったのでブログに残しておく。
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1031miyagidai.jpg宮城大学の敷地内の池
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おまけ
有森さんご本人からtwitterのコメント頂きました^^
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参考 ウィキペディア(2021年10月31日現在)
有森裕子ウィキペディアのプロフィールより
『プロフィール
岡山県岡山市出身。岡山市立牧石小学校、岡山市立岡北中学校を経て就実高等学校へ進む。中学時代はバスケットボール部に所属したが、校内運動会の800メートル競走で3回優勝していた。高校入学の際、陸上部に入部を希望するも、中学から大学までの一貫校である就実では中等部から持ち上がってきた素質ある陸上選手がおり、他の中学校から来た素人同然のランナーなど不要であると言われる。しかし有森は諦めず、1ヶ月後に入部を認めさせた[4]。高校時代に陸上競技で目立つ結果は残していないが、有森が高校に入学した年度に始まった全国都道府県対抗女子駅伝に、第1回から第3回まで補欠で登録されるという、同大会役員によれば大会史上唯一の記録が残っている[5]。このころの有森は、日本の女子長距離走の第一人者であった増田明美にあこがれ、増田について書かれた記事を練習日誌に貼っていた[6]。
高校卒業後、高校の陸上部顧問の推薦を得て日本体育大学に進学[6]。1年の時に関東学生陸上競技対校選手権大会の3000mで2位、また3年間補欠であった全国都道府県対抗女子駅伝に、4度目の正直で正選手として出走を果たす。が、生まれたときに股関節脱臼だったこともあり怪我が絶えず、その後は2年半に亘り鳴かず飛ばずで、密かにトライアスロン転向を目論み(女子の第一人者がいないという安易な思惑からであった)、親の仕送り全部を使って高額なトライアスロン用自転車を購入した。ところがその自転車は盗まれてしまい、そのことで有森は我に返ったという。3年の冬に学生駅伝にメンバーとして選ばれ、以降、有森は陸上競技からの転向は考えなくなった。全日本大学女子駅伝では区間賞を獲得している。
大学で競技者としての生活は終えて卒業後は教師になるつもりでいた。父親が教師をしている影響で、高校時代から体育教員志望であったという。しかし、教育実習期間中に、何の特別な準備もせずに出場した記録会で自己ベストから2番目の好タイムで優勝したことで、進路を実業団へと変える。折しもリクルート事件の真っ只中にあったリクルート社に、半ば押し掛けのような形で自分から連絡を取り、全くの無名で記録も残していない身でありながらその熱意を監督の小出義雄に認められ、最初はマネージャー兼選手という形で陸上部への入部を果たす。』

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